LOGIN花屋はまだ開いていた。
店先には小さな鉢植えと、切り花のバケツが並んでいる。
赤いガーベラ。
白いカーネーション。
黄色い小花。
名前の分からない淡い紫の花。
私は店の前で少し立ち止まった。
花を買うのは、久しぶりだった。
以前も買ったことはある。
でも、それは誰かの誕生日や、職場への差し入れや、部屋をきれいに見せるためのものだった気がする。
今日は違う。
自分の部屋に置くため。
まだ段ボールの残る部屋に。
薄い青のカーテンのそばに。
私が帰る場所に、ひとつ色を足すため。
「ご自宅用ですか?」
店員さんに声をかけられ、私は少しだけ戸惑った。
ご自宅。
その言葉が、胸の中で静かに響いた。
「はい。自宅用です」
そう答えると、思っていたより自然だった。
「一
中央のテーブルには、小さな器がいくつも並んでいた。 白い皿。 灰色がかった浅鉢。 青みのあるカップ。 少しだけ緑を含んだ深皿。 どれも似ているようで、少しずつ違う。 書店の展示で見た時は、器全体の雰囲気を眺めていた。 きれいだな。 生活に入ったら素敵だろうな。 そんなふうに、少し遠くから見ていた気がする。 でも今は違う。 この器には何を入れるだろう。 朝ならヨーグルトかもしれない。 夜なら煮物かもしれない。 この大きさなら、取り皿にも使えそうだ。 この深さなら、汁気のあるものも大丈夫そう。 そんなことを自然に考えている自分に気づいて、私は少し驚いた。 前なら、器を選ぶ時も「使いやすそう」「無難」「割れにくそう」くらいで済ませていた。 誰かに出しておかしくないか。 洗いやすいか。 しまいやすいか。 それはそれで大切だけれど、今の私はそこに少し別の問いを足している。 私は、これを使いたいか。 この器が食卓にあったら、少し嬉しいか。 その問いが、ちゃんと自分の中にある。◇◇◇◇ 私は淡い緑がかった小鉢を手に取った。 重さは軽すぎず、手の中に落ち着く。 縁は少しだけ揺れていて、完全な丸ではない。 青みの深皿とは違う。 でも、並べても喧嘩しなさそうだった。 これに何を入れるだろう。 ひじきの煮物。 おひたし。 冷奴でもいいかもしれない。 それから、少しだけ果物を入れてもよさそうだ。 考えているうちに、前に佐伯さんから言われたことを思い出した。 誰かに会えたから楽しいだけじゃない方がいい。 でも、会えたら嬉しいと思うのも悪くない。 今もそうだ。
扉の前で、私は一度だけ足を止めた。 中から聞こえる声は、穏やかだった。 誰かが笑っている。 器が触れ合う小さな音もする。 怖い場所ではない。 それは分かる。 でも、初めての場所の扉を一人で開ける時、胸はどうしても少し硬くなる。 私は案内の紙をもう一度確認した。 開催時間は合っている。 場所もここで間違いない。 販売会の日。 来てもいい日。 見てもいい日。 そう自分に言い聞かせ、扉に手をかけた。「失礼します」 小さく声を出して中へ入る。 最初に感じたのは、土の匂いだった。 強くはない。 湿った土と、木の棚と、少しだけお茶の香りが混ざったような匂い。 書店の紙とインクの匂いとは違う。 でも、不思議と落ち着く。 入口の近くに、受付代わりの小さな机があり、そこに作家さんが立っていた。「あ」 私に気づいた作家さんが、ぱっと表情を明るくした。「来てくださったんですね」 覚えていてくれた。 それだけで、緊張が少しほどける。「はい。案内を見て」「ありがとうございます。遠くなかったですか?」「大丈夫でした。少し迷うかと思いましたけど、看板があったので」「よかった。今日はゆっくり見ていってください」「はい」 私は小さく頭を下げた。◇◇◇◇ 工房の中は、思っていたより広くはなかった。 白い壁と木の床。 棚には器が並び、中央のテーブルにも皿や鉢が置かれている。 奥には、作業場らしい場所が少し見えた。 道具。 布をかけられた棚。 粘土を置く台のようなもの。 ここで器が作られているのだと思うと、胸が少し静かに鳴った。 書店の展
電車の窓の外を、見慣れない町並みが流れていく。 乗り換えは一回。 スマホで何度も確認したから、間違えることはないはずだった。 それでも、駅が近づくたびに少し緊張する。 仕事へ行く電車ではない。 誰かと待ち合わせをしているわけでもない。 ただ、私が行ってみたいと思った場所へ向かっている。 それだけなのに、膝の上のバッグを持つ手に少し力が入った。 窓ガラスに映る自分の顔を見る。 淡いグレーのブラウス。 小さなイヤリング。 少し硬い表情。 でも、嫌そうではない。 不安と楽しみが同じくらい混ざった顔だった。 乗り換えの駅に着く。 私は人の流れに合わせて降り、案内板を見た。 次に乗る路線のホームは、少し離れている。 スマホを見なくても案内は分かる。 でも、念のため画面を開く。 大丈夫。 合っている。 私は改札内の通路を歩いた。 休日の駅には、仕事の日とは違う空気がある。 急いでいる人もいるけれど、どこか全体が少しゆるい。 家族連れの子供が、ホームの端で電車を見ている。 大きな紙袋を持った女性が、友人らしい人と笑いながら歩いている。 私もその中にいる。 知らない場所へ行くひとりの人として。 そのことが、少しだけ嬉しかった。◇◇◇◇ 乗り換えた電車は、最初の電車よりも空いていた。 窓際の席に座ると、外の景色が少しずつ住宅街へ変わっていく。 高い建物が減り、低い家が増える。 小さな公園。 古い商店。 細い川。 線路沿いの花壇。 私はスマホの地図を開き、目的地の駅まであといくつかを確認した。 工房までは、駅から徒歩十分。 歩ける距離だ。 迷っても、
土曜日の朝、私は目覚ましより少し早く起きた。 まだ部屋の中は静かで、カーテンの向こうから薄い光が入っている。 今日は工房へ行く日。 そう思った瞬間、胸が少しだけ鳴った。 緊張している。 でも、嫌な緊張ではなかった。 知らない場所へ向かう前の、少し背筋が伸びるような緊張。 私は布団から出て、カーテンを開けた。 薄い青の布が左右に寄り、朝の光が水色の花瓶に当たる。 花はもう終わりかけていた。 それでも、最後の色を残すように静かにそこにある。 クラゲのキーホルダーも、いつもの場所で揺れていた。「おはよう」 小さく言う。 それから食器棚を開けて、青みのある深皿を取り出した。 今日の朝も、この器にヨーグルトを入れたいと思った。 プレーンヨーグルト。 ブルーベリー。 少しだけ蜂蜜。 丸いテーブルに置くと、いつもの朝食なのに、今日だけ少し意味が違って見える。 この器が生まれた場所へ行く前の朝。 そう思うと、普通のヨーグルトまで、少し旅支度をしているようだった。◇◇◇◇ 朝食を食べながら、私は今日の予定を頭の中で確認した。 午前中に洗濯を済ませる。 軽く掃除をする。 昼前の電車に乗る。 工房の最寄り駅までは、乗り換えが一回。 駅から徒歩十分。 販売会は午後からでも間に合うけれど、あまり遅くならないうちに行きたい。 緊張すると、段取りばかり考えてしまう。 でも今日は、段取りで自分を縛るためではなく、自分が安心して出かけるために確認している。 その違いを、少し分かるようになっていた。 ヨーグルトを食べ終え、器を洗う。 布巾で拭いて、食器棚に戻す。 今日は使った器を置いて出かける。 帰ってきた時、この器が棚にある。
工房の販売会の案内を見つけてから、私は何度かスマホの写真を開いた。 最寄り駅。 地図。 開催時間。 作家さんの名前。 写真展示協力として小さく書かれた、朝倉さんの名前。 その全部を、もう何度も確認している。 それでも、見るたびに少し胸が鳴った。 展示とは違う。 書店の二階ではない。 いつもの帰り道でもない。 電車に乗って、知らない駅で降りて、工房まで歩く。 それはほんの小さな外出のはずなのに、私には少し遠く感じられた。 以前の私なら、たぶん行かなかった。 気になると思っても、詳しくないし、一人で行くのは緊張するし、何も買わなかったら申し訳ないし、と理由を並べてやめていたと思う。 でも今は違う。 緊張しても、行ってみたい。 詳しくなくても、見てみたい。 何かを買うかどうかは、行ってから考えればいい。 そう思える自分がいた。◇◇◇◇ 土曜日に行くと決めてから、私は少しずつ準備をした。 といっても、大げさなことではない。 電車の時間を調べる。 駅から工房までの道を確認する。 財布に少し多めに現金を入れる。 エコバッグをひとつ畳んでおく。 それだけ。 でも、その一つ一つが、私を少しずつ工房へ向かわせているようだった。 金曜日の夜、私は丸いテーブルに座って、スマホの地図を見ていた。 水色の花瓶は窓辺にある。 クラゲも、いつもの場所で揺れている。 食器棚には、青みのある深皿。 その器があるから、私は工房へ行ってみたいと思っている。 作った人の場所。 器が生まれる場所。 そこに置かれる朝倉さんの写真。 考えるだけで、少しそわそわした。 私はノートを開いた。『明
それから数日後、書店の掲示板に新しい案内が貼られていた。 仕事帰りに前を通った私は、ほとんど癖のように掲示板へ目を向けた。 児童書フェア。 読書会。 手作り市。 その下に、見慣れない薄い生成り色の紙がある。『小さな器の販売会』 その文字を見た瞬間、足が止まった。 会場は、電車で少し行った場所にある工房。 開催日は来週の土日。 作家さんの名前。 そして小さく、写真展示協力として朝倉蓮の名前があった。 胸が静かに鳴る。 ついに案内が出た。 私は紙に書かれた地図をじっと見た。 知らない駅。 知らない道。 この書店の二階とは違う場所。 少し遠い。 少し緊張する。 でも、行ってみたい。 その気持ちは、前よりはっきりしていた。 私はスマホを取り出し、案内の写真を撮った。 すぐに誰かへ送ろうとして、手を止める。 まず、自分で予定を見よう。 来週の土曜日。 午後なら行ける。 日曜は洗濯と買い物をしたい。 土曜の午前に家のことを済ませて、午後に工房へ行く。 そう考えると、少し現実味が増した。 私はカレンダーを開き、小さく入力した。『器の販売会』 保存する。 それだけで、胸の奥に小さな灯りがともった。◇◇◇◇ 部屋に帰ってから、私は改めて案内の写真を見た。 工房の最寄り駅。 徒歩十分。 住宅街の中にある小さな場所らしい。 販売会といっても、大きなイベントではなさそうだった。 少し不安になる。 一人で行って浮かないだろうか。 詳しくないのに見てもいいのだろうか。 何も買わなかったら悪いだろうか。
昼休み、スマホが震えた。 私は資料から顔を上げ、デスクの隅に置いていたスマホを見る。 悠斗からだった。『今日後輩来るから適当に飲み物買っといて』 私は画面を見つめたまま、少しだけ指を止める。 ――後輩。 今朝言っていた人だろう。『わかった。何人?』
翌朝、目が覚めるとソファの上に毛布が落ちていた。 悠斗はベッドに戻ったらしい。 私はぼんやり天井を見上げたまま、小さく息を吐く。 身体が重い。 昨日はちゃんと寝たはずなのに、疲れが抜けていなかった。 時計を見る。 午前六時半。 あと三十分で悠斗を起こさないといけない。
食器を洗い終わった頃には、時計は十一時を回っていた。 悠斗はまだ帰ってこない。 私は濡れた手をタオルで拭きながら、なんとなくリビングを見渡した。 静かだった。 冷蔵庫の低い音だけが聞こえる。 こんなふうに一人でいる時間なんて、昔はいくらでもあったはずなのに。 最近は妙に落ち着かない。
玄関のドアを開けた瞬間、部屋が暗いことに気づいた。 午後九時過ぎ。 いつもならテレビの音がしている時間だった。 「……ただいま」 返事はない。 分かっていたことなのに、少しだけ肩の力が抜ける。 私はヒールを脱いで揃える。 その横には、朝履いていった悠斗のスニーカーが無造作に転がっていた。 ――また。